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社会科学系学部卒・男性のインテリアコーディネーター

主として、「インテリアコーディネーター」と住宅・建築・インテリア・不動産に関係する資格と資格試験に関係する内容

上役がとってくれという資格を取得するべきか【3/6】本人の得意分野でもなかった資格の取得を要求して取らすだけの経営者の会社

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上役がとってくれという資格を取得するべきか【3/6】本人の得意分野でもなかった資格の取得を要求して取らすだけの経営者の会社

[第16回]
   その資格を取得することが難しいか易しいか、その資格が難関かどうかというのは、誰もにとって同じではない。 中部大学の武田邦彦教授がブログで、大学というものは成績をつける必要があるのか、といったことを述べておられたことがあった。芝浦工業大学の教員をされていた時、学長の江崎玲於奈が言ったことらしい。 武田教授がブログで述べていたのは、たとえば、「速い球を投げる」という課題があって、全盛期の松坂みたいな男と一般的な男性と女性とが受講したとして、松坂みたいなやつてのは、これは最初から相当速い球を投げることができるので、何の練習もしなくても「A」の評価、一般的な男性はそれなりに練習すれば合格点、女性はどうしても球技などは体力的に劣るので相当一生懸命練習しても不合格・・・・なんて、そんな採点に意味があるのか? と。 だから、大学は、相当一生懸命学習したい人は一生懸命やればいいし、適当に大学生活を楽しみたいという人はそれでそれでいいのではないのか・・・と。一理はあるようにも思うのだが。
  ここで、とりあげたいのは、「松坂みたいなやつ(あくまで、全盛期の)」てのは、「速い球を投げる」という試験があったならば有利であるわけで、人それぞれ、有利なものと不利なものがあると思うのだ。私の場合、最終学歴として「慶應義塾大学商学部卒」と書いた履歴書を提出して(株)一条工務店に入社したが、高校を卒業する頃は、最も関心があったのは「心理学」であったが、その頃は「心理学」と「精神医学」と「心身医学」と「精神分析学」とどう違うのかもよくわかっていなかった。「精神医学」のような結論として体制に気に入らない人間を「病気」の扱いにして無効化するというようなものには関心はなかった。そうではなく、一般の人間が「完全なる機能」をして、すべての人間が「自己決定権」のもとに「自主的」に生きるために役立つことをしたいと思っていた。それから考えると、「心身医学」が近いか、もしくは、「心理学」になると「心理学者」が勝手なことやっているので、むしろ、「哲学」や「文学」「社会学」の方がまともとも思える。「心身医学」と「精神医学」の最大の違いは、「心身医学」では「患者」は「異常」と認定されていないので、「患者」に自己決定権があり、「医者」がおかしなことをする場合には「患者」がその「医者」と「医療」を拒否することができるのに対し、「精神医学」の場合は「医者」にとって気に入らない人間は「病気」で「異常」であると「診断」することが認められている為、「患者」は「医者」がどんなに「異常」なことをしても服従させられてしまう、という点であり、その点で「心身医学」の方がはるかに良心的ではるかに民主主義的であると言える・・・はずだが、最近では、「精神医学」と「心身医学」の両方の看板を掲げている「医者」がいて、それは「精神科」にかかりましょうと言えば嫌がる人間を「心身医学」「心療内科」にかかりましょうと言ってだましてつれていって「精神科」に「入院」と称して逮捕監禁するという作戦のようであり、この場合は、もはや、「心身医学」「心療内科」もまた、「精神医学」「精神科」のテカ(手下)でしかない。ともかく、私は「心理学」「精神医学」「心身医学」「精神分析学」「大脳生理学」といったものを、実状を離れてすばらしいもののように誤解していたようなところがあったのだが、そういう方面に進むのでなければ、司法試験を受けて裁判官か弁護士になりたいと思っていた、という人間だった。
  それを、何の因果か・・・というよりも、我が家は家庭内ファシズムのような家庭であって、父親は「わ~しのようなえっらいえっらいえっらいえっらい人間の言うことは、みんなが何でも、何でもみんなが言うことをきくというのが、それがみんなにとっての幸せというものやねん」と言っている男で、その結果、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくない学部に、暴力と脅迫で行かされてしまったのである。だから、結局、「大卒」の肩書を取得するためだけに卒業したけれども、慶應の経済学部や商学部に行きたいと思って行ったようなブタ人間とは違って、「詩人で名剣士。科学者で、しかも音楽家」というシラノ=ドゥ=ベルジュラックのキャッチフレーズのごとく、詩人で音楽家で、そして、理学部型思考人間であり、「商学士」としては法律科目を多く履修した人間だった。住宅建築業の会社では、小堀住研(株)で営業の仕事についたけれども、大学卒業時においては会社という所においては、人事総務の仕事をやりたいと思っていた人間で、営業の視点とともに人事総務の視点ももつ人間だった。もともとは、「理系人間」か「文系人間」かいうと高校入学の頃までは「理系人間」だったと思うが、大学を商学部に行って卒業したので、今さら「理系分野の仕事」につくわけにもいかないと考えていた。もともとは、「考える型人間」か「覚える型人間」かというと間違いなく「考える型人間」で、「覚える」という行為に苦痛を感じる人間だったのだが、高校の時に英語の学習をする際、そんなこと言っているわけにもいかないことから、いわば、野球のスイッチヒッターが元右打者が左打を「作る」ように、語学脳を「作った」のだ。これは感覚的なものであって説明は難しいのだが、「考える」型か「覚える」型かはデジタルではなくアナログであり、私はかなり強い「考える」型であったからこういったことを考えたのだが、「考える」型か「覚える」型かどちらなのかはっきりしないタイプの人はこういったことを考えることなく人生を送る場合が少なくないと思う。語学脳を「作った」とともに、浪人を2年もしてしまったことから、英語力はついた、と思う。俗に「2浪すると、英語力がつく」と言われたのだが、これは「2浪すると、英語の成績が伸びる」という意味ではなく、「たとえ、英語の成績は横ばいであったとしても、同じものを3年続けてやるのだから、英語のような『覚える』科目は、もしも、成績が『横ばい』であったなら、それだけ、頭に定着しているはずである」というものである。私は慶應大学に入学したいと思って慶應大に入った人間ではなく、東大に落ちてしまって、嫌々、慶應に行かされた人間であるので、入学時点においては、なんだかんだ言っても慶應大学よりも入学難易度の高い東大を目指した人間である以上は、慶應大学の一般的な学生よりも学力はあったはずである。しかし、我が家は父親が「大学は勉強する所とは違うんじゃ。甘ったれるなよ、チャンコロ! 大学は勉強する所とは違うんじゃ、チャンコロ」と言う家庭で、アルバイトばっかりさせられたので、私がアルバイトとして身体を動かすような仕事をしていた時に、英語の勉強をしたり法律の勉強をしたりした人間は、英語の検定試験に合格したり司法試験に合格したりしたのに対して、私は「肉体労働、肉体労働」と言われて、何しに大学に行ってるのやらさっぱりわからん生活を送らされたので、入学時よりも卒業時には英語力は低下したが、それでも、語学に苦手意識はなかった。
   だから、もしも、英語でも、フランス語でもイタリア語でもドイツ語でもロシア語でも、ヨーロッパ系の言語を1つ指定して、その言語を「3年以内にビジネスで使えるレベルまで学習してもらいたい」と言ってもらえたなら、(株)一条工務店に入社時の私なら習得できたと思う。もしくは、法律か経済学系の資格であれば、ともかくも、大学卒業までにある程度は学んできているのであるから、これも、3年以内くらいに何何をマスターしてもらいたいとか、何何の資格を取得してもらいたいと言ってもらえたなら習得・取得できたと思う。
   それに対して、インテリアコーディネーターというのは、1次の学科試験はまだしも、2次に製図の試験があった。 高校を卒業する時点では私は「文理両道型人間」「総合型人間」であったし、基本的には「理学部型人間」であって「ブンケー人間」ではなかったので、高校卒業時に建築学科に進学する道を選択していたならば、(株)一条工務店に入社してきた私立五流大学建築学科卒のにーちゃんねーちゃんよりもよっぽど優秀な成果を間違いなく出せたはずであるが、高校卒業時にその方向に進まなかったので、すでに30を過ぎて(株)一条工務店に入社して、入社2年目、33歳から、製図の勉強をしないといけない試験を受けるというのは、これは「きつい」という印象で、資格をとってくれと言うのでも法律系の資格か経済学・商業学系の資格か、もしくは語学の資格を取って呉と言ってくれた方が、ほかの人にとってどうかは別として、私にとっては取得は楽であったはず・・・だが、それでも、営業本部長がインテリアコーディネーターをとってくれと言うのだから、この会社で、私にインテリアコーディネーターの資格を取得させて、慶應大学商学部卒の者としての経済学的思考、商業学・マーケティング的発想とインテリアコーディネーターとしての知識・技能を合わせて、商品開発か新規出店計画などの仕事を担当させようということであろうと考えて、片方で営業の仕事をこなしながら、片方で必死で努力をして合格してみせた。会社としては、会社が取ってくれと指示した資格をきっちりと取得してみせた以上は、それをそれに応じて評価するのは当然のことのはずである。・・・ところが、2001年、栃木県南部の営業所長であった木下(男。当時、40代前半)は「ぼくらは、インテリアコーディネーターにしても宅建主任にしてもどんなにしても通らない。それをあんたは何の努力もしていないのに簡単に通る。ずるい!」などと暴言をはいたのである。「ずるい」とは何だ、その言い草は。 私は「何の努力もしていないのに」通ったのではない。大変な努力と工夫をしてやっと通ったのである。「簡単に」など通っていない。 むしろ、木下の方こそ、「ぼくらはどんなにしても通らないのに」と言うからには何らかの努力をしたのかというと、何もしていないではないか!!! そして、総務部長の天野雅弘が「木下の言う通りだ。おまえは、インテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも宅建主任も簡単に通る。ぼくらはどんなにしてもそんなものは絶対に通らない。ぼくらが通らない試験をあんたが通るというのはずるい! 不公平だ。だいたい、何が気に入らんというて、おまえが慶應大学を出ているというのが、それが何より気に食わんのじゃ、この野郎! 普通はそう考えるものだ。そう考えるのが常識だ。この野郎!」とそう言ったのだ。何が「この野郎」だ、「この野郎」というのはこちらが言う文句だ。「常識」か、そんなものが??? だいたい、「おまえは簡単に通る」などと言うが、私は決して「簡単に」など通っていない。相当の努力と工夫をしてやっと通ったのである。よくも、そういう勝手なことを言ってくれると思う。それよりも、営業本部長がとってくれと言うからインテリアコーディネーターは取ったのであり、営業本部長がそう言わなければ、もしも、何か資格を取得するとしても、インテリアコーディネーターではなく他の資格を取得したと思うのだ。
   野村克也が阪神タイガースの監督になった時、新庄選手は大変、肩が強く、外野からの返球がすばらしく、無死か1死で3塁にランナーがいた時に外野フライを打たれた時でも、他の外野手なら3塁ランナーがホームにかえるところを、捕球したのが新庄であると、ランナーは本塁に向かわずに3塁でとどまるという場面が何度もあったが、野村は、新庄は生まれ持って大変いい肩をしており、性格も投手向きの性格であり、新庄に今までに投手をやったことはないのか尋ねたところ、高校の時にリリーフで短いイニング投げたことがあるという答えだったが、もしも、せめて、プロに入団時に自分が監督であったなら、投手としてやった方が成功しただろう・・・けれども、すでに、外野手として何年もプロでやってきて、今さら投手に変わるというわけにもいかないので、投手に変われというわけにもいかず、外野手を続けた・・・らしい。 私の場合も、高校生の時か、せめて、高校を卒業する頃に、建築学科か土木学科を目指す方向に行っていたならば、もともとは「理系人間」か「ブンケー人間」かというと間違いなく「理系人間」であったと思うし、その方が成功したのではないかと思うが、いかんせん、(株)一条工務店に入社した時点で30を過ぎていたので、今さら、製図の試験がある資格試験を受けて取得するというのは、実際問題としてきついなあ~あ・・・というのが印象だったしそういうものは建築学科・土木学科に進んだ人にやってもらって、私のような社会科学系学部卒で語学も苦手ではないという者は、資格を取得して会社に貢献するにしても、そちらの方面の資格を取得するようにして会社に貢献するようにした方がいいと思ったのだが、(株)一条工務店の営業本部長がとってくれというので、インテリアコーディネーターの資格を取得するべく努力して、4回目の受験で合格して取得した。
   しかし、会社の上役が取得してくれと言うのであるから、だから、その資格を取得したにもかかわらず、取得してくれと私に言った営業本部長の天野隆夫に、合格しましたと話しても、「合格した? さっすがやなあ~あ。おめでとう」と言うだけであった。 はあ? なんか、ひとをバカにしてんのお???

   日本ハムファイターズから米国メジャーリーグに移籍した大谷選手の「二刀流」がいいか悪いかといった議論がされたが、昔から「バッティングのいい投手」というのはいて、私が最も記憶に残っているのは、PL学園でなんとも勝負強いバッティングを見せた桑田投手が巨人に入ると投手として歩んだのだが、彼のあのPL学園時代のすばらしいバッティングを見ると、野手の道に進むのとどちらがいいのか、どちらも捨てがたいように思えた・・・が、桑田選手は投手を選んだ。 どちらを選ぶのがいいかは何とも言えなかったと思うが、おそらく、桑田選手は野手を選択してもそれなりの成果を出せたのではないか。しかし、「どちらでもできる」と「両方できる」は同じではない。
   これと同様に、一般の会社員でも、「どちらでもできる」と「両方できる」は同じではない。 その会社の仕事で必要とされる、その会社の仕事で生かされる資格でない資格を取得するために、労力・時間を費やすというのは、それは「人生の無駄遣い」である。
   (2018.6.9.)

  次回、【4/6】「一流大学」卒の者があまりにも「下の会社」に行くと「かえってよくない」 http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/17/


☆ 会社の上役が資格を取れと言う資格を取得するべきか
【1/6】男性に不利なインテリアコーディネーター、認知度の低いキッチンスペシャリスト http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/14/
【2/6】「一流大学」出身者に敵意を持つ経営者の会社 http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/15/
【3/6】本人の得意分野でもなかった資格の取得を要求して取らすだけの経営者の会社 〔今回〕
【4/6】「一流大学」卒の者があまりにも「下の会社」に行くと「かえってよくない」 http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/17/
【5/6】「努力する姿勢があるから通る人間」を「何の努力もしないのに通る」と思っている経営者。退職者の就職妨害する会社 http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/18/
【6/6】学習法は人それぞれ。人生の設計を考えないと、男女とも「資格は取れても美貌は消える」ことになりかねない。http://shakaikagakukei.blog.shinobi.jp/Entry/19/

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